「水 墨 玄 空 2014」 座談会
水墨の心と技が一体となるとき ―「水 墨 玄 空」展によせて
中野 嘉之(日本画家)、 呉 一騏(水墨画家)、 大竹 卓(水墨画家)、小松 謙一(日本画家)
島尾新(学習院大学教授)、 野地耕一郎(泉屋博古館分館館長)
進行役 顧定珍(画廊GM)
昨年、開催した「水○墨三人展」は、水墨の多様な可能性を示し、各方面からご好評をいただきました。昨年に引続き日本画家・中野嘉之、中国出身の水墨画家・呉一騏、日中の画法を学んだ大竹卓の三名に今年は日本画家・小松謙一を加えた四名が集い、展覧会名も「水墨玄空」と変え、更なる水墨表現の精神性を追求します。
ここでは展覧会に先だって、四作家が考える水墨の魅力を語り合った座談会の模様を一部ご紹介いたします。水墨画に造詣の深い島尾新氏(学習院大学教授)と野地 耕一郎氏(泉屋博古館分館館長)にも参加いただき展覧会に寄せる言葉をいただいております。
● 水墨の多様な解釈
顧:昨年の「水〇墨三人展」は、中国と日本それぞれの土壌から、水墨の将来を考える展覧会でした。というのも、大竹卓先生と呉一騏先生は多様化する新たな水墨表現を見つめ直そうとされ、中野嘉之先生は日本人作家でありながら中国の伝統を探求されていたからです。
三作家の表現は一般のお客様に感動を与えただけでなく、他の画家にも刺激を与えました。実は今回参加いただくことになった小松謙一先生もその一人です。
小松:昨年の三人展は大変興味深く見せて頂きました。というのも特に皆さんがそれぞれ「墨」のいろいろな解釈を踏まえた上に、全く違う方向性を打ち出していらしたからです。それが私が参加を熱望した一番の理由です。
中野:確かに、墨に内在する本質について、各自が異なった解釈を持っていますが、これはとてもいいことだと思っています。大竹先生や呉先生は中国から日本に来られてすでに二十年以上経つわけですが、二人とも当然ながら中国の伝統を踏まえながらも、大竹先生は日本画の解釈を取り入れてその融合も試みるなどの技法を実践しておられるし、呉先生は古典水墨を敬いつつも日本で活動することで中国の伝統から解き放たれた自由な展開を続けているように見受けられます。
顧:大竹先生と呉先生は、水墨あるいは水墨画についてどのようにお考えでしょう。
大竹:私は北宋水墨画の復興と同時に、現代に新たな水墨表現を切り拓いてみたいと考えています。北宋から時代が下って南宋・元以降になると、文人画家たちが筆勢こそ意思を伝える唯一の方法であると考えたことから、筆勢を強調した大写意水墨画が誕生します。墨の微粒子と水の働きによる滲みが生紙との間に絶妙の関係性をもつ大写意水墨画の誕生は、水墨画史上に大きな画期となり、転機となりました。それが近代、現代にも繋がっているのです。しかし近年の大写意水墨画は様式化されることによって停滞してしまっていると私は考えます。そこで私は、かつての北宋水墨画を参照することで独自の水墨表現を試みてきました。ドーサ引きした紙にぼかしと皴法(しゅんぽう)を繰り返し、重ね合わせていく私流の水墨画です。水の力を借りながら、玄幽の境地が生まれるまで墨を幾重にも重ねて深みを出していきます。
● 筆技と心技
呉:私は、技法という言葉には二つの意味があると思います。一つは「筆技」、つまり筆をとって作品を表現する技であり、これは私にとっては手段として存在するに過ぎません。しかし、技法にはもう一つ「心技」があり、私はこちらの方が重要だと思います。心技とは、第一に水と墨という基本素材についての認識を深めることです。第二に自身の内にある精神性や思想、心境をどのように思考の中で作品に投影出来るかということ。そして山水への憧憬がやがて単なる風景を超えて精神世界へと昇華出来るかということであり、私は日々これを研鑽しています。心技の意味の技法で大切なのは、伝統を踏まえた上で、守・破・離の精神をいかにして貫くかということなのです。
顧:なるほど大竹先生は様式論、呉先生は技法論と、アプローチの仕方に大きな違いがあることが分かります。中野先生は以前、水墨画は中国の歴史の上で宋、元の時代にひとつの完成期に達し、日本では室町期にその強烈な精神性を受けて多くの先人達が長い歴史の変遷の中で日本特有の絵画の可能性を開いたとおっしゃいましたね。中国出身のお二人がここ日本で、伝統を踏まえながらそれを独自の解釈をもとに革新的な仕事をされることは、こうした数百年の時代を往還するようでとても素晴らしいと思います。そこで小松先生にも、水墨についてどのようにお考えかお尋ねしたいと思います。
小松:私が自分の水墨画で大事にしたいと思っているのは、墨と水の出会いによって生まれる「生」な感じです。画面の中での「滲み」、「溜まり」などの表情を、作品の臨場感や空気感として定着させる事が出来ないだろうかと思って取り組んでいます。ですから墨に紙、墨に絹本という支持体の違いによって、画面の乾きや湿度といった質感の違いがどう表れてくるのかを研究しています。
● 水墨境地へのアプローチ
顧:墨による表現は、これからどうあるべきでしょうか。その可能性についてお聞かせください。
呉:水墨には、とても多元的な要素があります。水墨ではどんな表現もできます。しかしそれはなんでもいいということではなく、東洋の作家は、筆を持つこと、墨を扱うことに対して強い責任を持った方がいい。われわれは、東洋の作家として、「水墨境地」を見せることが必要なのではないでしょうか。
中野:まさに呉先生のおっしゃる通りです。我々は今、その境地を見せなければならない時だと思います。作画のプロセスはそれぞれ違いますが、腹の底から唸る情景や心情、そしてすべての緊張感によって、水が墨を動かし、画面の中で感覚が自由に動き出す。そうした心と技が一体となって本質を抉るような仕事をしていきたいですね。
顧:水墨境地とは、いわば悟りの境地にも似た精神と世界が一体となった作品の境地ということですね。
大竹:中野先生の言葉からは、一画家というよりも日本の墨芸術、墨文化に対する使命感のようなものが感じられて、いつも敬服しています。日本の美術史を振り返って見ると、様々な流派や画派が共存してきたことがわかります。異なる文化が共存する多元文化は、日本文化の特質であって大変尊いものです。それにもかかわらず、近代になると文人画を否定するアカデミックな風潮の中で、水墨画自体が日本の美術から追い出されてしまった。東洋の長い歴史の中で水墨画が培ってきた独特の文化を失わないように取り組むことは、今日の私たちに課せられた使命だと思います。
中野:宣紙へ滲む墨の美しさを駆使しようとする私の表現は、大竹先生の画法とは逆のアプローチではありますが、水・空・光の三要素を自分の世界にどう取り込むかということが大切です。それが私にとって水墨の尽きない魅力なのです。
顧:島尾先生と野地先生はこの展覧会に何を期待されますか。
島尾:書でも画でも、水墨のベースであるところの墨と水の原点、その原初的な力を見せてもらいたいという期待があります。作品の基になるものとしての墨を、水がいかにして誘導し動かしているのか。その感覚とダイナミズムが湧き上がってくるような作品と出会いたいですね。
野地:水墨のスタンダード、つまり高いクオリティをもってして、その本来の水準が示される会になればいいなと期待しています。いま水墨画人口は確かに広がりつつあります。この裾野の広がりがあるうちに、頂に立つ先生たちが活動を提示して、それが浸透していくことが大切でしょう。皆さんはそれを示してくれる作家たちだと思っていますので、とても期待しています。
(月刊美術11月号より)
ギャラリー通信#76(2014年11月)より転載