つまり、岩絵の具を主な顔料とし、金箔等を使い時間をかけて制作する「作り絵」のように、隋、唐、仏教美術が遣隋使、遣唐使によって日本へ伝わったものが、後に大和絵へと発展した絵画様式と、中国北派水墨画とつながりのある幕府の御用絵師でもあった初期の狩野派に見られる、即ち筆法用筆の水墨画、薄描きの絵画様式のふたつのジャンルは互いに時に対立し、補いあい、共存共栄をして近代に至っているのではないでしょうか。先ほど言った等伯と永徳の代表作には、まさしくこのふたつの様式が日本的に各自独特の芸術様式を確立した例でもあります。
私が日本に留学で来た当時の日本画は近代化し変貌した後の日本画です。日中の文化芸術は「同源」とよく言われますが、近代になりかなりの差がついたのではないでしょうか。日本の近代絵画は大和絵や唐絵を基盤にした近代西洋絵画の諸要素に加え、平面化、装飾性等の特徴を持つ、岩絵の具を顔料とする厚塗りの絵画でした。かつて中国で古典絵画を勉強した私にとって、全く新しい絵画だと思いました。7年間の日本画の勉強、そして敦煌、キジル、天水麦積山等、仏教石窟の壁画を研究しながらその経緯が少しずつ分かってきました。東方絵画のこのふたつのジャンルは相違・共存・共栄の性格を持ち、一作家が両方をこなすのはごく自然なことだと私は考えるようになりました。桃山時代の長谷川等伯、狩野永徳、近代では加山又造、横山操。こうした作家がこのふたつの流れに様々な異なるものを取り込み、芸術創作の源にしたと思われるからです。
■ なぜ、今の時期に水墨画の現代への復活を考えるのですか。
大竹 江戸末期、明治、大正、昭和にかけて、日本の美術史を見ていると、いろいろな流派、美術様式が共存共栄し、それぞれの画派が時代に応じて変革を起こしています。このような土壌があったからこそ日本画の巨匠輩出の時代が迎えられた。しかし岩絵の具により厚塗りの様式が定着し、さらにそれが日本画の方向性と決められるようになった現在では、水墨画を含む多種多様な芸術表現が単一化され、バランスが取れていたふたつのジャンルの一方は均衡を失いました。水墨画の画壇離れは、ただひとつの美術様式を失うことではなく、水墨画とつながる東方人としてのものの見方、考え方まで失ってしまうのではないか、また水墨画にある独特な造型、表現、構成等、長い歴史の中で形成された独自の芸術表現様式をも失ってしまうのではと思い、かつての水墨画復活の意義を考えたのです。
■ 大竹先生の作品を見ると、今までにないような水墨画の表現ですが、この独自の技法や制作過程にこだわる理由は何でしょうか。
大竹 芸術家は自分独自の芸術表現様式を創り、確立するのは当たり前のことだと思います。私が制作の技法や制作過程を重視するのは、現代アートから受けた影響もあります。現代アートでは過去の伝統、古典的な表現様式に対立する立場をとっているものが多いと見受けられます。自らの観念、考えで「ものづくり」をする。例えば使う材料。限りなく何でも使う。奇想天外な発想が作品の成り立ちになる。私はそれと逆に、あえて材料を限定し古人がよく使う材料で現代に向かって新たな表現で挑戦してみたいです。
そこで、私が意識するのは北宋時代の水墨山水の技法と表現です。これは、今、中国で流行している生紙、筆表現(マチエール)の様式ではなく、ドーサ引き紙でぼかしと皴(しゅん)を重ね合わせる表現です。麻紙、松煙墨、胡粉を使い、現代感あふれる画面となるよう工夫をします。墨に墨を幾重にも重ね深みを出す。最低限度の胡粉を使い空気の透明感を出します。制作中に「水の力」(自然の力)を借り、胡粉の粒子を誘い丁寧に定着させ、墨の朦朧、曖昧、わび、「玄幽」のような境地を噴霧器なしで描き出す。自分をあえて厳しい環境に追い込み16年間試行錯誤してきました。
■ 制作において、何を一番大切にしていらっしゃいますか?
大竹 水墨作品を創る上で一番大切なことは、体で覚える、「体験」ということです。美しい景色、きれいな花、自然の万物は、他としての存在である作者の体を通じて作品になる。心が自然と向かい合ったときの感動を画面に移していく。「澄懐味象」、心を澄ませて形を味わう。御殿場のアトリエでは、一年中富士山麓の表情を観察し続けました。雲や霧、豊かな表情と心の思いが重なり合う。その気持ちを熟成させ、固め、そして作品の中の雲霧となる。今回の出品作には、中国黄山を題材にした作品が多いです。過去14回黄山に行きましたが、作品は私の心の中にある黄山です。現実と心象にあるモチーフを自在に構築して新たに組み合わせた第二の自然なのです。いわゆる「画中三昧」。作者にしかない心の「感動」。
この展覧会を機会に、多くの方とこの感動を分かち合いたいと思っています。

練馬区のアトリエにて
2012年7月 ギャラリー通信50 インタビューより
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